(自分の想いをいつも、神様のみ心の愛の中に投げ入れておくとよい)
私どもの朝夕の生活の道を、神の永遠の道の中にひき上げてしまうことが必要なのです。それはいったいどうすればよいか、と申しますと自分の想いをいつも、神様のみ心の愛の中に投げ入れておくとよいのです。投げ入れておくというのは、神の愛のみ心の現れである大調和の波動の中に、世界平和の祈りをもって入りこんでしまうということです。
世界人類が平和でありますように、という祈り言は、神の大調和のみ心と、人間の平和でありますようにという悲願の心とが、全く一つに融け合う祈りです。そういう縦横十字交叉の真理の大光明波動の中で、祈る人の精神波動も、肉体波動も光明化してゆくのであります。(テキスト37頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
投げ入れる。入り込んでしまう。
「神様よろしくお願いします。世界人類が平和でありますように。」
(人をやっつける想いがある人が、世界を平和にといったとて、それはおかしなこと)
ただ単に日本は武力を放棄すればよいなどと無理なことを思ってはおりません。日本が武力を放棄しても大丈夫になるためには、国民一般が、真実に世界平和一念の生き方をするようにならなければ駄目なのです。自己が世界平和に反する不調和な心をもっていて、自分の行ないが平和に反していて、ただいたずらに武力をなくせ、などといっても、それは無理で、自分の行ないがすでに、戦争をひき起こす、運命の一役を買っているのです。
人をやっつける想い、人を引きずり下ろす想いがある人が、世界を平和にといったとて、それはおかしなことです。
(テキスト59頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
理想:武力放棄をする
現実:武力放棄は無理
(原因結果のいちはやく消え去ることを、祈ることがよい)
たとえ、自己の利害関係に反し、自己の感情に反する相手や環境があっても、それは過去或いは過去世からの消えてゆく姿なので、原因は過去にあるのであり、現在はその原因が果となって現われてきているので、その消えてゆこうとするものを把え感情を乱し、心を痛めて、また過去における出来事のむしかえしをするのは愚かしいことなのです。ですから、そういう場合は、自己の感情的行為で処理しようとしないで、心を空(むなしう)し、心を鎮(しづ)めて、その原因結果のいちはやく消え去ることを、祈ることがよいのです。想いを、肉体的な感情の中に置かずに、祈り心で神さまのみ心におあづけしてしまう、ということによって、仏教の空の心境、老子の無為(むい)の心境に到達して、真実の生き方、無碍(むげ)の生き方ができてくるのです。(テキスト62頁)
(何事もすべて善くなると、よいほうによいほうにとる人は、幸せな生き方)
なんでもかでも悪くとる人と、何事もすべて善くなると、よいほうによいほうにとる人と、どちらが幸せな生き方であり、どちらが神のみ心に叶った生き方であるか、ということは論をまたないことです。
(テキスト65頁)
(神仏へ感謝し、守護の神霊の加護を念じる、純朴な精神になることが、これからの人類にとって最も大事なこと)
神仏への感謝を常に持ちつづけ、守護の神霊の加護を念じて、日常生活をしてゆく、純朴な精神になることが、これからの人類にとっても、最も大事なことなのです。すべてはその後において自ずと行われてゆくのであります。(テキスト72頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
加護を念じて ⇒ 「どうかお守りください」との形で祈ればよい。
(真実の平和世界をつくり出すためには、柔和な心の底に大いなる勇気が必要)
大調和を実現させるためにも、ただの柔和さというだけでは、世界の不調和の波に押しつぶされてしまいます。
真実の平和世界をこの地球界につくり出すためには、柔和な心だけでは足りないのです。いかなる困難の事態に処しても、その調和した心のひびきを、ひびかせつづけなければいけないのです。
それには柔和な心の底に、大いなる勇気がいります。
(テキスト77頁)
因縁をこえる
(テキスト78頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
因縁因果を超えるのが宗教の目的である。守護の神霊の加護によって因縁因果をこえることができる。
(私〔五井先生〕は、守護の神霊の存在を強調し、祈りによっての神我一体観を実践することをすすめている)
そこで私は、想念意識が自己の生命が神だとか、本心が神だとか、頭では想うが、意識全体としてなかなか思いきれないだろうと察して、そこに守護の神霊の存在を強調し、祈りによっての神我一体観を実践することをすすめているわけなのであります。
(テキスト86頁)
(人間は神の子でもあり、そして同時に、動物性をもつ、自分勝手な生き物でもある)
人間は確かに神であり、神の子でもあります。そして同時に、動物性をもつ、弱肉強食的な生き方をする自分勝手な生き物でもあります。(テキスト87頁)
(まだまだ、神の子としてはるかに遠いところに、人間はいる)
本心を顕現するという、神のみ心の面では、まだまだ、神の子としてはるかに遠いところに人間はいるのであります。(テキスト87頁)
(現在の一般の人々は、神の子ではなくて、神の子と動物との混交した存在ということになったりしている)
そこで、現在の一般の人々は、真人ではなく偽人ということになったり、神の子ではなくて、神の子と動物との混交した存在ということになったりしているわけで、現在の国家群は、すべて人類の真の姿を現わした国家というわけにはゆかないのです。
(テキスト131頁)
(自力の御本尊〔役の行者〕が、絶対他力の道を教え、私〔五井先生〕を導いてくれた)
ところが不思議なことに、この自力の御本尊(注:役の行者)が、私の守護神として、絶対他力の道を私に教え、私を導いてくれたのです。それは一体どういうことなのでしょう。筆舌に表わせぬすさまじいまでの自力修業で、自己の肉体を霊化せしめた役の行者でありましたが、霊化してみたら神霊の世界には、はかり知れない探さ広さがありまして、今まで自分が考えていたような自力では、とてもそれ以上の世界に昇ってゆくことは不可能であることがわかったのです。わかったその瞬間、役の行者の霊身は、本体の自己と一つになり、宇宙神のみ心の中に、すっぽりはいっていたのであります。(テキスト143頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
絶対他力の絶対とは、他力一念ということ。
絶対他力になりきった時には、神我が全く一つになっている。
(テキスト147頁)
(役の行者は、私〔五井先生〕の一挙手一投足についても、やかましく指導してくれた)
役の行者は、私が幽界霊界や神界のことがわかってきた頃から、かなり表面に現われて、私の一挙手一投足についても、やかましく指導してくれたのであります。修業中のある時のこと、私が歩いていますと、急に中から(おまえは、もうこの世では役に立たない、このまま昇天する)とこわい声で役の行者がいうのです。そして、私の歩みをとどめさせもせず、私の想いを次第に肉体から抜いてゆこうとするのであります。肉体からすっかり想いが抜けたら、一体どうなるでしょう。座っているのではなく、立って歩いているのですから、そのままばったり肉体は地上に倒れるに違いありません。そう思うと全く冷汗三斗(さんど)で体全体がすくんでしまいました。その時は、守護霊のようになっていた友達の渡辺君や、弟の五郎が、助太刀してくれて、どうやら急場をきりぬけたことは「天と地をつなぐ者」にも書いてあると思います。(テキスト153頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
守護神はこのように人間に嘘をつくことがある。