(自己の心の内部の神と、祖先霊(守護霊)、守護神への感謝をつづけてゆく)
自己の心の内部の神に向い、自己の天命の完(まっと)うされることを、常に祈念し、併せて、自己の天命を果させるための守護として神より来ている祖先霊(守護霊)、守護神への感謝をつづけてゆくことなのであります。(テキストP20)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
内部の神=守護霊+守護神
本心 =内部の神を含む。
(現われてくる悪い事態も、自己から発する悪想念をも、過去の誤りの消えゆく姿とする)
一度び、はっきりこの業想念を否定する想いになり、自分は神から来ている者である、神の使命をこの世において果すために来ているのだ、自分は神様(直霊)に使われているので、そのような妄想念は無いのだ、と、ひたむきに、自己を守っている守護の神霊にすがりつき、感謝しつづけ、現われてくる如何なる悪い事態も、自己から発する悪想念をも、過去の誤りの消えゆく姿として、そのこと、その想いに把われず消し去ってゆくべきであります。
(テキストP21)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
真理としては、悪は無いのだ
現実としては、業想念は消えてゆく
(真実の宗教人は、常識をはずさず、超常識の生き方ができるようになる)
宗教には奇蹟が必ずともなうもので、宗教信仰によって奇蹟が生れぬようならば、その宗教信仰は本ものではないのです。真実の宗教人とは、平常心是道(へいじょうしんこれみち)であり、花は紅(くれない)、柳は緑、眼は横に鼻は縦に、というあたりまえの生活の中にいて、あたりまえの行動をしていながら、常に普通人から見たら奇蹟的な成果を得ている人なのであります。私が常に申しているように、常識をはずさず、超常識の生き方ができるようになるのであります。(テキストP29)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
感謝できる心境になることが、奇跡。
お祈りの練習をしていることが大事。
(私〔五井先生〕は、空即実相の姿で、印を結び、柏手を打っている)
中心者の私は、空即実相の姿で、印を結び、柏手を打って、ひたすら個々人の浄めと地球世界の業因縁の消滅の行をやっているのであります。(テキストP36)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
空になった時に神界の本当の姿が現れてくる。
世界平和の祈りを祈っていると、空即実相の姿が現れてくる。
(新興宗教は、因縁因果説を、今風に、心の法則ということにして、説いている)
「おまえの病気は、これこれこういう心の現れだ」「君が貧乏なのはこのような心を持っているからだ」「あなたがあのような不孝な目にあったのは、あなたの心の中にこんな想いがあったからだ」等々の昔風にいえば、因縁因果説、今風にいえば、心の法則ということにして、精神分析的に宗教を説いているのです。
(テキストP51)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
- 仏陀は因縁因果の話を、もう二度と同じ過ちを犯さないようにという意味および、人を勇気付けるために説いた。
- 心境の低い人が因縁因果を説くと、人を責めてしまう。
- 因縁因果の教えだけでは、人は救われない。
- 因縁因果の欠陥=自分を責め人を責めてしまう。
(因縁因果の法則〔心の法則〕は、自己の心を裁き責め、他者の行動を非難し責め合うような、地獄の心を起さしめる)
底に神を説かれての精神分析の方法は、一歩誤まると、自己の心を裁き責め、他者の行動をいちいち非難し責め合うような地獄の心を起さしめるものとなるのです。(テキストP52)
(因縁因果の法則は、互いの欠点を探りあい、責め合う想いが湧きあがってしまう)
因縁因果を説くのでも、心の法則を説くのでも、人間の今日までの心は、こうしたものであったのだけれど、人間の本体というものは実は神そのものであって、自由自在なる大智慧、大光明をもつものであるのだ、ということを知らせるための前提のようなもので、指導される側が、そうした方法に心がひっかかってしまうような教えをなすべきではないのであります。
例えれば、月を差す指のようなもので、月を差した指だけをいつまでもみつめさせて、月のほうに一向に眸がゆかぬような教えをしたのでは、その教えがかえってマイナスになって、人間がお互いの欠点を探りあい、お互いの病気や不幸のある度びに、あの人の心の中に何かの間違いがある、と責め合う想いが自然と湧きあがってきてしまうのです。(テキストP52)
(私〔五井先生〕は、すべては過去の想念行為の消えてゆく姿であるので、ひたすらその業想念 を消していて下さる、守護霊、守護神に感謝しつづけなさい、と説く)
そこで私は、この因縁因果説も、心の法則も一度は認めさせながら、それをさし示した指を、月(神)のほうに集中させるように、病気も不幸も貧乏もすべて過去の神を離れていた想念行為の消えてゆく姿なのですよ、と月をさす指を消さしめて、それと同時に、消えてゆく姿を想う時に、あなたのうちにある神の姿、本心が輝きでてくるのですよ、ですから、ひたすらその業想念を消していて下さる、守護霊、守護神に感謝しつづけなさい。そうすれば、自己の心の業想念にも、他の人の業想念にも把われず、自分の心を赦し、人の心も自ずから責めさいなまない、愛と赦しが自然と行われ、お互いの心の中の神性が、いつの間にか輝き出てくるのですよ、と説いているのであります。(テキストP53)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
因縁因果説(心の法則)
前提:業も悪もある。善もあるが悪もある。
実相論
前提:業は無い。人間は神の分けみ魂。
実相論と因縁因果論は、矛盾する2元論である。どららか一方を実行するのが良い。
因縁因果論が好きならば、徹底的に因縁因果論を実行するが良い。
実相論を実行するのならば、人間は神の子であり業は無いので、因縁因果論は必要ない。
五井先生の実相論は、『業は消えてゆく』という、新しい実相論。
(消えてゆく姿の底には、光り輝いている神仏、守護霊、守護神の姿がある)
ただ単なる消えてゆく姿では虚無的な諸行無常的な匂をもちますが、その底に光り輝いている神仏、守護霊、守護神の姿を画き出すと、禍変じて福となす式の光明思想になるのであります。
(テキストP67)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
本心は永遠で消えない。神様は消えない。悪いものが消えてゆく。
(私〔五井先生〕の教えには、むずかしい理論はなく、やさしい方法がある)
この教えには、なんらむずかしい理論はありません。ただ、神への全託に想念をもってゆかせるための、やさしい方法があるだけです。すべて宗教の教えは、月(真理)を差す指でしかありません。
その指にだけ心を向けさせるような、むずかしい理論や、利による方法は、いつまでしても、弟子たちの心を神(真理)のみ心に合致させるわけにはゆきません。(テキストP70)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
神への全託が重要。
(宇宙人の高い心とひびきを等しくできるやさしい教えが、消えてゆく姿と世界平和の祈り)
宇宙人の高い心とひびきを等しくでき得る一番やさしい教えは、消えてゆく姿と世界平和の祈りであります。これは金星の長老の言葉ですから間違いありません。(テキストP71)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
地球よりはるかに進んでいる金星の長老が言うのだから、世界平和の祈りは古くはならない。
世界平和の祈りは、最初で最後の祈り。世界平和の祈りより良い祈りは、今後絶対に現れない。
(私〔五井先生〕は、神さまから、空独尊という神名をもらった)
私は神から、空独尊(くうどくそん)という神名をもらっていたのです。(テキストP104)
(常に世界平和の祈りをし、守護の神霊への感謝をつづけていれば、憑依される恐れはない)
私は守護の神霊の存在を説き(拙著神と人間参照)常に世界平和の祈りをし、守護の神霊への感謝をつづけていれば、憑依される恐れはない、と説いているのであります。(テキストP174)
(宗教的な人で、やたらに霊能力を欲しがる人々には、幽界の生物の憑依があったりする)
それから、宗教的な人で、やたらに霊能力を欲しがる人々には、人間の想いを見すかして、人の想いを当てたり、種々と予言したりして、人々を恐れさせ、あたかも自らを神のようにみせて得意がっている幽界の生物の憑依があったり、この世で行を積みながら、人格の低劣のため、幽界から上がれない行者上がりの霊魂が、この肉体使いやすしと喜こんで、その人に憑(つ)いて様々な奇蹟を行い、人々に崇(あが)められる地位になったりすることもあります。しかし、こういう立場で教祖や指導者になった人々は、自己の人格の高貴性で、そういう地位が与えられたのではないので、やがてはその霊能力も衰え、憑依した生物や行者の喰い物にされて、哀れな末路となってゆくのであります。(テキストP175)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
幽界の生物は、神の名を語って現れる。
たとえ神様が現れても「消えてゆく姿。世界人類が平和でありますように」と唱えることが大事。
(高い祈りの生活をしていれば、神さまのほうで、霊能力が必要だと思われれば、神さまの計らい で、自ずと霊能力がついてくる)
そうしていれば、神のほうで、その人には霊能力が必要だと思われれば、守護の神霊の計らいで、自ずと霊能力がついてくるのでありまして、これはすべて他動的に賜わったというような方向でゆくほうがよいのです。(テキストP176)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
賜るという謙虚な姿勢が必要。
(不平不満が多ければ多い程、宇宙の法則を踏み外している)
不平不満が多ければ多い程、その人は自らの徳を減らしているのでありまして、宇宙の法則を踏み外(はず)している人なのであります。(テキストP189)
(念力による願望成就の方法は、肉体人間の自我欲望であり、神への信仰ではない)
例えば、必要な時にお金が入ったり、家が出来たりするのにはどうしたらよいか、という答の中で、「もし百万円ほしいなら、もうすでに百万円さずかったと思って、百万円さずかってありがとうございますと、常に思いなさい。そうすれば念の力で百万円集ってくる」といったり、家がほしいなら、自分の必要とする家の図面を書いて、「もうすでにこの家が自分にさずかっているのだ」と強く思いなさい、そうすれば心の力で家がさずかる、というように、念力を強めて、念力によって、自己の欲っするものを得る、という方法を教えているのです。そしてこの方法があたかも神への信仰であり、祈りでもあるような思い違いをさせてしまうのであります。
これはとんでもないことなのです。念力はあく迄、肉体人間自身の自我でありまして、神への信仰でも、神の援助でもありません。そういう方法によって自己の望みが叶ったとしても、それは信仰の勝利ではなく、我(が)を通しただけでありまして、その場は得をしたように思いますが、一生の間に得ることになっていた富を、一時の念力によって前借りしたようなもので、後になってその分だけ運命の中で返済しなければならなくなります。
そんな方法で富を得ることは、宗教の道でもなんでもなく、唯物論式の在り方に他なりません。
(テキストP205)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
祈りと念力は異なる。
祈り=神力
念力で願望成就をさせようとすることは、宗教に反していることで、とんでもないことである。
世界平和の祈りをしていれば、自己の天命を完っとうするに必要な物は与えられる。
宗教信仰とは、欲望をなくし、自我をなくすことである。