〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
天命を信じることで、人事が尽くせる。
人事を尽くすという事が、大事。
自力とか他力とかいうことではなくて、努力するということ。
自力とか他力とかいうのは、神我一体になるための道であり、日常生活の中で、努力することは、自力とか他力とは言わない。
(五井先生の教えには、“天命を信じて人事を尽くせ”という教えがある)
私の教えには″天命を信じて人事を尽くせ″ということがある。普通は人事を尽くして天命をまて、というのですが、これは唯物論者でもみな同じことです。私がいうのは、まず天命を信じるのです。「自分が生まれて来たことは、神さまがこの世に必要あって生んで下さったんだから、私には必ず天命があるに違いない。天命のない者が生まれてくるわけはない。神さまが無駄なことをするわけがない」という信仰です。神を信ずる、自分が生まれて来た天命を信ずる。
そうすると、どんなことが出て来ても″あゝ自分は天命を必ず完うするんだから、自分はこんなところで死ぬわけがない。こんなところで参ってしまうわけはない″という固い信仰が出てくるわけです。それで人事を尽くすんですよ。天命を信じて、神さまにつながったから、もう人事を尽くさなくともいい、鍵をかけなくとも、どうせ私は信仰しているから大丈夫、ガスはつけっ放しでいい、ということではありません。人事を尽くしていませんね。自分は信仰しているんだから、切符なんか買わないで乗ったっていい、なんていったって、改札口は通れません。そういうのは常識外れというんですね。(テキストP180)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
「鍵をかけなかったり、ガスはつけっ放しにするのは、人事を尽くしていない」と五井先生はおっしゃっている。これらは、怠惰という業である。
鍵をかけたり、ガスを消すのは、自力ではない。
(神を信じながら、出来ることは自分でやる)
だから天命を信じて人事を尽くす、神を信じながら、出来ることは自分でやらなきゃ。一所懸命、計画もすればいいでしょう。家計簿をつけてもいいでしょう。鍵をチャンとかけたらいいでしょう。夜は早く寝たらいいでしょう。とにかく、出来るふつうの生き方をすればいい。(テキストP181)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
出来ないことは、神様に任せる。出来ることは、自分でやらねばならない。
計画を立てるのは、自力ではない。計画を立てるのは、人事を尽くすことの一つ。
宗教を信仰すると、人事を尽くすことを忘れてしまうから、五井先生はあえてこのようにおっしゃっている。
(安心して、神さまにまかせて、自分の力を尽くす)
それをふつうの人はオロオロする。出かけるにも泥棒が入らないか、火事になりゃしないか、心配して考える。天命があるということは、何が来ようと天命は完う出来るんです。だからそんなことはどうでもかまわない。みんな神さまにまかせて、守護霊守護神が守ってくれるのだから、業をうまく消してくれるんだから、自分が困って、くたびれて倒れてしまうような、そういう業の出し方は決してしないのだから、安心して、神さまにまかせて、あとは自分の力を尽くすんですよ。
同じ鍵をかけるんでも、泥棒が入っちゃ大変だって、鍵をかけるんじゃなくて、世界人類が平和でありますように、と鍵をかければいいでしょう。外へ出かけるんでも、五井先生お願いします、有難うございますって出かければいいでしょう。(テキストP181)
(殆どの宗教家は、祈りを知っていない)
今までは、祈りということを知らないですよ、大体が。宗教家の殆どが祈りを知っていない。生長の家では世界平和思念連盟というのをつくって、世界平和を祈るのだというのですが、生長の家の機関誌に書いてあることは、思念の力、想いの力を利用して世界平和を祈るんだと書いてある。想いの力思念の力というのは力むことですよ。世界人類が平和、世界人類がって力むんですね。力んだことは届かないのです。その人の力より出ないのです。その人の想いの力というのには限度がある。いくらも上がっていかない。人間が平和を望む想いより、悪魔の想い、業想念のほうが強いです。何故強いか、考えてごらんなさい。
(テキストP198)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
力むかどうかで、思念の力か祈りかが、わかる。
(業想念の想いのほうが強い)
本当の話そうですよ。そういう想いのほうが強いのです。そこへもって来て、思念の力で世界平和が、世界平和がといいながら三十分か五十分はやるかもしれない。ところがあとの時間は全部自分のことだけを考えている。自分が幸福であることが潜在意識に一杯ある。
(テキストP199)
(思念の力では、世界平和に絶対にならない)
自己保存の本能といって、自己を守る本能が強いんだからね。そういう自己保存の本能の想いで、世界平和、世界平和と想いの力を一所懸命こらしたとしても、そんなのは神さまに届きません。それは思念の力といって、間違いなのです。思念の力では世界平和に絶対にならない。戦争をして金儲けをしようとする人はたくさんあるんだから。戦争したらいいと思っている人はたくさんいる。
(テキストP200)
(自分の天命は必ず完うされるに決まっている、と信じて、人事を尽くす)
天命というのは、いつも安らかに、自然に自然法爾に出来ることなのです。自然に現われてくる。ただ自然に現われてくることを現わすために、やっぱり努力をしなければならない。それは日常茶飯事を一所懸命やる。これは常識。当たり前のことをやればいい。
自分は神さまに守られているんだ、世界平和の中に生きているんだ、自分の天命は必ず完うされるに決まっている、と信じて、それで当たり前の常識の線にそって働けばいいですよ。それを何もしなくても、こうやって祈っていれば奇蹟が起きて、なんでもかんでも出てくるようなことを説く人もいるけれども、そんなことは嘘なの。やはり人事を尽くさなければいけない。やるべきことはやらなければならない。天命を信じたから、といって、米を炊くにも、ガスに火をつけないで祈っていれば、今に神さまが来て、守護霊が来て、ガスに火をつけて、御飯が出来るだろう――そんなの馬鹿らしいでしょ。ところがそれと同じようなことをやるんですよ。
信仰というのを間違えちゃってね、それで出来ないと、なんだ先生、あんなこと言っているのにちっとも出来やしない。先生はインチキだ、嘘だ、なんてそういうんですよ。それは間違っています。やるべきことはやらなければならないですね。そういうことなんです。
なんでもない楽なことなんです。(テキストP205)
(お前の心が悪い、なんて心の法則は一切いらない)
人間は神の子なんだ、光明燦然としているもんだ、悪は無いんだ、なんていったらば、お前の心は悪い、心の影だよ、なんて心の法則は一切いらないんです。それがあったら人間は神の子でなくなって、悪魔の子に下がってゆくのですよ。生長の家ばかりではありません、どの宗教もそうです。お前は神の子なんだ、光明燦然としているんだ、と教えていながら、お前が悪い、というんです。お前が悪いというのは一切いらないんです。お前が悪く見えるのも、私が悪く見えるのも、すべてみんな過去世の因縁が現われ、消えてゆく姿で、その人その人は悪くないんだ、という観方をしませんと、本当の人間世界は幸福になりません。
(テキストP50)
(すべての想いを世界平和の祈りの中に投入する)
世界は平和になるんだ、地上天国は出来るんだ。出来るためにはどうしたらいいかというと、世界平和の祈りの中にすべての想いを持ってゆきなさい。怒りの想いも結構、悲しみの想いも結構、すべての想いを世界平和の祈りの中に投入しなさい。
(テキストP58)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
「世界は平和である」ではなくて、「世界は平和になる」という信念で、世界平和を祈る。
「人間は神の子である」ではなくて、「人間は神の子になる」。
これが、理想と現実とを結ぶ、中庸の道である。
(宇宙平和の祈りというのをやっている人もいるが、聞いている人は笑ってしまう)
私が世界平和の祈りを始めたので、負けてはならじと、宇宙平和の祈りというのをやっている人がいるのですよね。世界より宇宙のほうが広かろうというのでね。聞いている人は笑いますよ、地球はまだ自分のことは何も出来ていないのです。銀河系宇宙があります。いろんな星があります。たとえば太陽系宇宙の中にも、いろんな星があります。その星の中で、地球が一番未開なのです。一番遅れているのですよ。それなのに宇宙平和なんていわなくたっていいですね、地球世界が本当に平和になれば、宇宙の星の一員になれるのです。宇宙の本当の活動体の一員になれるわけです。(テキストP99)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
世界平和の祈りよりよい祈りは、肉体人間では作れない。なぜならば、世界平和の祈りは、神様が作ったからである。
(“おれは宇宙人だ”という人から、五井先生に協力要請の手紙が来た)
どこかの週刊誌に“おれは宇宙人だ”というのが出ていましたね。その宇宙人だという人から、私に、自分は神さまから宇宙を統一する使命を授かった、だから是非五井先生も協力してもらいたいという手紙が来たんですよ。それで星島統一と名乗っているのですよ。(テキストP100)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
大きすぎることを言う人は、まゆつば。行き過ぎたことをしている人は、本物ではない。
(現象的には親鸞にはいろんなことがあったが、安心立命していた)
現象的には親鸞はいろんなことがありました。娘さんが遊女になったり、息子とは義絶したり、悲しいことがあったんだけれども、すべての業生を阿弥陀さまの中へ入れてしまったから、安心立命していた。それでいまだに法然、親鸞といえばその名声は赫(かく)たるものがあります。(テキストP139)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
現象的には全て消えてゆく姿。
現象で、人の心境等を判断してはいけない。
(消えてゆく姿は、いきばってやる必要はない)
質問 たとえば小説を読み出して、三時間なり五時間なったとします。その五時間後に、あゝこれは消えたんだ、といえばいいわけですか?
答 それでもいいです。いきばってやる必要はなんにもないんです。頑張るっていうんじゃないんですよ。だんだんやっていくうちに、自然に消えてゆく姿が出来てくる。本当につまらないことはやりたくなくなっちゃう。
ちょっと帰りに一杯飲んで“このおでんはうまいから飲んでいかないか”てなことをいって一杯飲んでいるでしょう。先に消えてゆく姿を思わないで飲んじゃうんですよ。そして酔っぱらって帰って奥さんに叱られてサ、「あゝ成る程、これは消えてゆく姿だ」そこではじめて消えてゆく姿がわかってくる。だんだんわかってくる。
(テキストP153)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
後で思い出して、消えてゆく姿、と思っても良い。
(五井先生のお姿を撮ったら、円く輝く霊光が写っていた)
昭和25年の夏だったと思います。午後三時か四時頃、ぶらりと島田さんの家にいった。その頃、私はぶらりぶらりと気の向くまま、今日市川にいたかと思うと、明日はもう横浜。朝、亀有にいたかと思うと、夕方深川のほうに行っている。どこへいくかわからない。私を探すのに一日がかりで追っかけないとわからないような行動をしていた。
島田さんのところにも夜の十二時頃ぶらっと行っちゃ、泊まるぞってなことをいって泊まったりなんかしていた。そういう家だった。それで三時か四時頃行きました。Yシャツでネクタイをしめていました。門の前で写真を二枚写したのです。それを私の所に持って来ました。それには私のうしろの真ん中に、観世音菩薩が立っているんです。はじのほうに冠をかぶった古代の人みたいなのが立っているんです。顔だけ見えてね。その他に霊がいっぱい写っていた。
その頃、真間(まま)の或る人の二階の八畳と四畳を借りていましたが、下の奥さんがその写真を見て「先生、この写真大変です」と二階に上がってきて「見てごらんなさい、見てごらんなさい」というわけ。私は私を写した写真と思って、別にそんなことを考えていませんでした。そう言われてよく見ると霊が一杯写っている。あゝ成る程成る程、そうするともう一枚たしか写したわけなんだけれど、あれはどうなったんだと島田君のところへ問い合わせたんです。そしたら実は捨てちゃったというんです。そりゃすまないが探してくれ、というんで探してもらったらありまして、それで現像しましたら、霊光写真だった。(テキストP160)