〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
光明思想=人間は善なるものである。
積極思想=人間には善なる部分と、悪なる部分とががある。
(因縁因果の話は、うっかりした指導の仕方をすると、相手を痛めつけてしまう)
うっかりした指導の仕方をすると、条理にあった言葉であっても、相手を戸惑わせ、痛めつけてしまうようになってしまうのです。その中で一番マイナス面を出しやすいのは、因縁因果の話です。
(テキスト147頁)
(因縁因果とは、その人自身ではわからない、ずうっと過去世からの原因結果である)
因縁因果というのは、昔から宗教の言葉としてはつきものでして、それは何かの因縁よ、という工合に当り前の会話にもつかわれているのです。この因縁因果というのは、どういうことかと申すと、原因結果ということなのですが、この原因結果が普通いわれる原因結果より、奥深いもので、個人的にも現世だけの原因結果ではなく、前の世、その前の世というように、人間生命が、その想念行為として、人間生命として、この地球界にも生れてきた過去の過去のずうっと過去の想念行為から現在までの原因結果なのでありまして、現在のその人自身ではわかりようのない原因によって生じた結果を、自己の環境として受けている、というわけになるのです。(テキスト147頁)
(因縁因果の話は、生きる気力さえ失ってしまうような気持になってしまったりする)
そうした因縁因果を、信者たちの前に持ち出して、お前たちの不幸は、こうした因縁によるのだ、とやるのですが、これがその導師が宿命通の人であり、神通自在の人であるならば、その因縁因果を超えられる方法を、その信者に援助してやらせることができるのですが、そうした力のない導師ですと、現世の現われの面からあてはめた因縁因果を持ち出して、信者にまかせることになってしまいます。聞かされた方は半信半疑ながらも、自己の因縁の深さにうんざりして、かえって生きる気力さえ失ってしまうような気弱な気持になってしまったりするのです。(テキスト147頁)
(想念が、罪の意識、因縁性の意識のうちにある限りは、人間は神の子になり得ない)
人間を罪の子として認め、因縁因果の中に住む者としての宗教の教えは、小乗的なものでありまして、人間は神の子、仏子であるという光明思想に反するものなのです。人間の想念が、罪の意識、因縁性の意識のうちにある限りは、人間は永劫に神の子にも仏子にもなり得ません。一歩一歩善を積んで、罪の意識をなくし、因縁性を超えてゆく、というやり方では、人類の業想念の波の方が、個人の肉体的人間的善意識よりも強いので、サイの河原の石つみのように積んでは崩れてしまうものなのです。(テキスト149頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
光明思想 ≠ 因縁因果
<光明思想>:人間=神の子 『悪は無い』
<因縁因果>:悪の存在を認めている。 『善因善果』 『悪因悪果』
⇒光明思想と因縁因果は、よって立つ原理を異にする教えなので、同時に説くと、矛盾するの2元論となる。
(光明思想とは、大神様の中に、消えて行く姿として投げこんでしまう方法である)
そこでどうしても徹底した光明思想が必要になってくるのです。光明思想というのはどういうものかと申しますと、人間は神の子であるとして、すべての悪や不幸や不調和を大神様(救世の大光明)の中に、消えてゆく姿として投げこんでしまう方法なのです。(テキスト149頁)
(つかんだ想念ごと、消えて行く姿として、守護の神霊への感謝とともに世界平和の祈りの中に入れてしまうと、やがては神の子本来の姿が、その人の生活環境の中に現われてくる)
いかなる悪も不幸も不調和も、因縁因果という言葉も罪の子という意識も、すべて一度つかんだら、そのつかんだ想念ごと、消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝の想いとともに、世界平和の祈りの中に入れてしまうのです。そうすると、いやでも応でもやがては、神の子本来の姿が、その人の生活環境の中に現われてくるのです。(テキスト149頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
徹底した光明思想とは、因縁因果を説かない一元論の光明思想のこと。
本来、悪はない。
現在、悪はある。
⇒ 悪は、時間とともに、消えて行く (消えて行く姿) ⇒ 未来に、悪はない。
(自分の欠点を自分でひき出して、自分で直すということは、容易なことではない)
肉体人間というものは、どのように修養しても、何かしらの不完全不調和の箇所があるもので、いちいち自分の欠点を自分でひき出して、自分で直すということは、容易なことではないのです。そういうやり方は宗教ではなくて修養なのです。(テキスト151頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
消えて行く姿は赦しの教え。
(人間は神の子なのだ、という観念の下に、全生活をやりなおさないと、因縁因果の波の世界を脱け出ることはできない)
人間は神の子なのだ、光の子なのだという観念の下に、そこから全生活をやりなおさないと、因縁因果の波の世界、心の法則の波の世界を脱け出ることはできないのです。(テキスト151頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
心の法則=恐怖の法則
(世界平和の祈りの他に、足し増しはいらない)
この世界平和の祈りの他に何の足し増しがいるのでしょう。世界平和の祈りをやりながら一体、精神分析をやる必要がどこにあるでしょうか。因縁因果の波を把え、自己を責め人を裁く必要があるものでしょうか。(テキスト152頁)
(世界平和の祈りによって、救世の大光明の救済力にゆだねてしまうことより他に方法はない)
精神分析も、因縁因果も、あれが悪い、これが悪いも、すべて、世界平和の祈りによって、救世の大光明の救済力にゆだねてしまうことより他に何の方法があるのでしょう。神はすべてのすべて、神は絶対智、絶対愛、大調和の大光明です。その神にゆだねても、まだ足りないものがあるとでも思っているのでしょうか。(中略) 神の大愛に全託したようにみせながら、まだいたずらに自己の我をつかって、相対的な敵や悪をみつけて神のみ心と離れた、肉体人間的智慧才覚で動こうとしているようでは、光明思想とは云えなくなってくるのです。(テキスト152頁)